かつての私の部屋は、どこに床があるのかさえ分からない、いわゆるゴミ屋敷でした。驚かれるかもしれませんが、当時の私はその環境で過ごすことを、それほど苦痛だとは思っていませんでした。むしろ、高く積み上がったコンビニ弁当の空き殻や雑誌の山に囲まれている方が、外の世界の厳しさから守られているような、不思議な安心感さえ抱いていたのです。仕事で疲れ果てて帰宅し、ゴミの隙間に作られたわずかなスペースに横たわるとき、私は周囲の惨状を「見えないもの」として処理していました。臭いも、ホコリも、視覚的な圧迫感も、私の脳の中では完全に遮断されていたのです。友人を呼ぶことはありませんでしたし、宅配便も玄関先で済ませていたため、他人の視線に晒されることもありませんでした。他人の目がない空間では、異常は日常へと容易にすり替わります。私が「このままではいけない」と気づかされたのは、ある日、ふとしたきっかけで足元を這う害虫の姿を、まるで他人の部屋のことのように冷淡に眺めている自分に気づいた瞬間でした。自分の感覚が、生命としての危機感さえ失うほどに壊れていることを悟り、背筋が凍るような恐怖を覚えたのです。平気だと思っていたのは、心が麻痺していただけで、本当の私は絶望の淵に立っていました。清掃業者を呼び、一つ一つのゴミが運び出されていく過程で、私はようやく、自分がどれほど重苦しい「負の遺産」に囲まれていたのかを実感しました。床が姿を現し、窓から新鮮な空気が入り込んできたとき、麻痺していた感覚が一気に目覚め、涙が止まりませんでした。今、清潔な部屋で過ごしながら思うのは、あの「平気」という感覚がいかに危険な依存であったかということです。もし、今の環境を平気だと感じている人がいるなら、それは心が発している沈黙の悲鳴かもしれません。感覚の麻痺を解くのは勇気がいりますが、その先には、人間らしい健やかな日常が必ず待っています。